銀座カラー名作に学ぼう 今週の、あのセリフ

愛されたことがなければ、愛せない?深く響く便利屋の言葉

 

「だけど人を愛することはできる。自分に与えられなかったものを、新しく誰かに与えることはできるんだ」(映画『まほろ駅前多田便利軒』より)

 

最初から”存在しない”愛と、途中から”なかったこと”にされる愛。どちらがマシなの?

 

舞台は東京郊外の”まほろ市”。その駅前で小さな便利屋を営む多田。そこにひょんなことから中学生時代の同級生・行天が転がり込み、奇妙な共同生活がはじまります。

 

多田の営む『多田便利軒』にはさまざまな仕事が舞い込むのですが、ある日「塾帰りの小学生の息子を、家まで送り届けてほしい」と母親から依頼を受けます。塾通いの男の子の名前は”由良(ゆら)”。母親の前では従順な良い子を演じますが、多田と行天の前では180度変わり、生意気な態度をとります。由良いわく「母親は、子どもの帰り道が心配だから送り迎えを便利屋に頼んだのではなく、単に見栄を張りたいだけだ」。塾通いの子どもたちは裕福な家庭が多く、時間とお金に余裕があるから毎日保護者が送迎をしている。でも自分の家は母親が夜遅くまで働かなくてはいけない事情がある。小うるさいほかの保護者から嫌味を言われないように、1時間2,000円の便利屋に”お迎え”を頼んだのだ……と。

 

以来、多田と行天は、業務用の軽トラに乗って塾前で由良を待ち構えてはマンションへと送り届けます。しかし、ある日由良が熱を出しても、母親は心配する様子がありません。多田が「息子さんに熱があるようなので、お母さまが帰宅されるまで様子見で家にあがらせてもらいました」と告げると、母親は由良の部屋に行って様子を見るわけでもなく「そうですか……。まずおふたりにお茶をお出ししますので」と、冷蔵庫をあけるのでした。日々の仕事で疲れきっているのか、自分の息子の体調を気遣える余裕がまるでない様子。

 

母親の愛情に飢えている由良は、アニメ『フランダースの犬』についてこんな感想を多田と行天に伝えます。
「親が最初からいないのと、親から無視され続けるのと、どっちがマシかってことだよ」。
ふたりは、由良の言葉を否定することもなく、黙って耳を傾けます。そして一段落したところで、多田がこんな風に語りかけるのです。

 

多田「おまえの望む形で愛してくれることはないと思う」
由良「そうだろうね」
多田「だけど人を愛することはできる。自分に与えられなかったものを、新しく誰かに与えることはできるんだ」

 

与えられなかったものを新しく誰かに与えることができる?

 

幼い由良が多田の言葉をどのように解釈したのか、映画では多くを語ることなく、あっさり次のシーンへと移ります。

 

実は多田も行天も、由良と同じように親や家族とのあいだに不和や軋轢を持った人間でした。その時のトラウマのようなものが、30歳をすぎた大人になった今でもフラッシュバックすることがあるのです。

 

それでも彼らは、不器用ながらに今を生きています。過去に傷ついた経験があるからこそ、他人の痛みがわかり、”便利屋”という仕事を通じて人々の心の隙間を埋める作業をしているようにも見えます。

 

自分が望むような愛をもらえなかった時、自分が望むものを新しい形で誰かに与える。そんなマザー・テレサのようなことができるものなのか。できたとしても、喪失感や渇望感ははたして消えてなくなるのだろうか。

 

経験したことがない者にとって、多田のセリフは由良と同じようにいまひとつピンと来ないかもしれません。だけど、深く心に響いてくるのです。たしかに「望みのものを受け取ることはなかなか難しいけれど、誰かに同じものを与えることはできる」、それだけはわかるから。その先になにがあるのかまったく謎。なにもないかもしれないし、自分自身が変わることもないのかもしれません。でも失うだけを見つめているよりか、はるかに希望の光に包まれるのはたしか。

 

誰かを許し、なにかを与えることが、結果的に自分自身の心を大きく解放する。そんなことに気づかされる一本です。ドラマ編は映画版よりもさらにコミカルにストーリーが展開していくので、こちらも要チェックです!

 

 

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